私、子供ですか?

「丁度ジュース類を切らしていてな、紅茶でもいいか?」

 アイスティーの入ったグラス二つを片手に持ったガイがそう言った。テンテンは改めて感じたガイの掌の大きさに驚きつつも「……はい」と普段より数倍小さな声で返答を返す。

 木ノ葉学園で体育教師を務めるガイと、学園在学生であるテンテンは所謂”禁断の恋”の真っ最中だ。二人の関係を知っているのはガイにとってもテンテンにとっても由縁の深いリーとネジのみ。その他の生徒、教師達はその事実を知らない。

 ガイに対し”恋心”を抱き始めたのはいつだっただろうか。初めはただただ、熱血で暑苦しい一教師としてしか認識していなかった。それがいつしか特別な感情に変わり、奇跡のようなことではあるがガイと想いを通わせる事が出来た。

 だが、二人の関係が禁断である事に変わりはない。どんなに一途で真剣な想いだったとしても、この関係が世間に露見する事で被害を受けるのは教師であるガイだ。それを重々承知しているテンテンとガイは、いつも決まってガイの自宅で逢瀬を重ねていた。家の中ならば周りの目を気にする必要もない。心置きなく”恋人らしい”事ができる。

 そう、思っていた。

 ダイニングにある大きなソファに腰掛けるテンテンは、グラスを両手で握り締めたまま悶々と考えを巡らせていた。付き合い始めてからはそれなりの時間が経った。ヒナタやサクラやいのが話していた恋バナによると、もう既にABCのCまでいっていてもおかしくはない期間だ。それなのに。

 ガイとテンテンは未だ、キスしかした事がない。

 そのキスも、ただ唇を啄むような所謂バードキスのみ。抱き合ったり寄り添ったりはしても、ガイが積極的にテンテンに触れてくることは少なかった。不満なのか? と問われればそんなことは無い。テンテンはガイと寄り添いあって居られればそれで十分だと思っていた。

「えええヒナタあんたまだそこなの!?」

「う、うん……私って、その……色気、ないの、かな」

「いや……色気はその胸だけでじゅうぶ……ううーんそうねぇ……」

「もっと色気をアピールしていかなきゃダメよ!!」

 体育終わり、一個下の学年と入れ替わりで更衣室を使っていた時にたまたま耳に入ったそんな言葉。着替えを進めながらひっそりと聞き耳を立てていたテンテンは、その言葉に一気に焦りを感じた。

 ガイから見れば、まだ17歳であるテンテンは子供の域に入るのかも知れない。もしかして、もしかして? 

「……私って、色気ない……?」

 ぽそりと呟いたそんな言葉は、誰に届くこともなく更衣室の隅へ消えていった。





 今日は、テンテンとガイの関係を知っているリーとネジも合わせてガイの家で勉強をする予定だ。だが、リーとネジは何やら用があるらしく、少し遅れて来るらしい。二人きりでいられるのは、その二人が合流するまでになる。はっきりさせてやる。私にだって色気くらいあるんだと証明してやる。誰に対する証明なのかもわからないが、今日のテンテンはいつもとは思惑が違っていた。

 紅茶よりもジュースの方がいいと思われていた時点でスタートダッシュには失敗しているが、テンテンは少し距離を開けて隣に腰掛けるガイをチラリと見やる。行くぞ、いくぞ、いくぞやってやる。そんな決意を内心で固めて、テンテンは意を決し、身体をガイの方へと傾けた。

「おっとそうだ! この間カカシのやつにもらった上手いマドレーヌがあってな、テンテンも食べるだろう!!」

 まるで、スローモーションのようだった。ガイの方へ傾けたテンテンの身体はもう止まらない。だが、大きな声でそう言って勢いよく立ち上がったガイの身体はもうソファの上にはない。

 受け止めてくれる者のいなくなったテンテンの身体は、虚しくも静かにソファへと沈んだ。

「んん? どうしたテンテン眠いか?」

 突然横になったテンテンを不思議に思ったのか、ガイはキッチンへと向かう足を止めてそう問いかける。一人身体を横たえるテンテンは「別に! なんでもありませんが!」と半ば躍起になって言葉を返した。

 出鼻こそ挫かれたがテンテンは諦めない。そんな気持ちを込めて、マドレーヌを持って戻ってきたガイを見つめれば、ガイは「?」を浮かべた顔でテンテンを見つめ返した。

「どうした、マドレーヌは好きじゃなかったか?」

「いえ、好きですけど」

「そうかそうかはっはっは! なら好きなだけ食べていいぞ!」

 お皿に山盛りに盛られたマドレーヌをテンテンの目の前に差し出すガイ。その気遣いですら子供扱いのように思えてしまって、テンテンは眉を顰めたままマドレーヌに手を伸ばした。マドレーヌは美味しかった。

「よし、あいつらが来るまではテンテンの苦手な英語をやるか」

 テンテンがマドレーヌを食べるのを横目に、ガイはそう言いながら再度ソファに腰掛ける。そしておもむろに英語の教科書を開き「今はどこまで進んでいたんだったか……」とブツブツと言葉をこぼした。まずい、テンテンはそう思った。このまま勉強が始まってしまったら、ガイの教師スイッチに火がついてしまうこと間違いなしだ。だがそんなテンテンと思いとは裏腹に、ガイは真剣な眼差しで教科書を捲る。

 不覚にも、そんな横顔にときめいた。

「今はこのあたりだったか?」

「え!? あ、ソーデスネ!」

 思わずガイに見とれていたテンテンの方へ向けられるガイの視線。テンテンは声を裏返らせながらもそう返答をした。テンテンの思いも虚しく、勉強タイムは始められた。

「えーと、ここの英文は……そもそも質問の意味がわからない……」

「む、この単語とこの単語を組み合わせて考えてみろ」

「んん、あ、あー……なるほど!」

 典型的な熱血型の体育教師であるガイは、一見すると座学には疎いように見える。だがさすがは教師と言ったところで、ガイは人に物を教えるのが上手かった。あまりにも的確なガイのアドバイスに、テンテンは感動しながらノートに答えを書き進めていく。元々、テンテンは勉強熱心な真面目な生徒だ。知らない事を教わり、問題を解いていくのは純粋に楽しかった。

 でも、違う。そうじゃない。

 バキリ、と。テンテンの持ったシャーペンの芯が音を立てて折れた。完全にいつものペースだ。このままだと、本当にただ健全に勉強をして終わることになる。

「わ、私、なんか熱くなってきちゃいましたぁ……」

 流れを変えなくては! そんな使命にも似た思いでそう言って、テンテンはふう、とため息をついた。そしてガイをチラリと見やりながら、制服のカーディガンをゆっくりと脱いでいく。

「なら窓を開けてやろう!!」

「そこまでじゃないので! 大丈夫ですからここにいて!!」

 だがそんなテンテンの事は気にもとめずに、ガイはいい笑顔でソファから腰を上げようとする。さっきの二の舞だけは避けよう、とテンテンは慌ててガイの腕を掴んだ。

「そうか? まぁ、頭を使ったからな! 頭に熱が登ったのかも知れんな!」

「ああ……」

「だが俺は嬉しいぞ! テンテンは優秀だからな! きっと次のテストでも上位に入れるだろう!」

「ソーデスネ」

 だが、やはりガイは何一つして気にしていない。少し回りくどいやり方過ぎただろうか、と反省をして、そしてテンテンは閃いた。ガイの教師魂と、恋人としての欲望を同時に揺らがせる方法を。 だが、やはりガイは何一つして気にしていない。少し回りくどいやり方過ぎただろうか、と反省をして、そしてテンテンは閃いた。ガイの教師魂と、恋人としての欲望を同時に揺らがせる方法を。

「せ、先生」

「なんだ? わからないところがあったか?」

「私、次のテストは英語で上位5位以内に入ります!」

「おお! 苦手な英語でか」

「はい、だから、その」

 机の上に置かれたガイの左手に、自身のそれを重ねる。ピクリと跳ねるガイの肩。羞恥で跳ねる心臓を押さえつけて、テンテンは意を決して息を吸った。

「……5位以内に入れたら、ご褒美……欲しいんですけど」

 ガイの手を強く握る。潤んだ瞳で自身を見上げるテンテンを、驚いたような表情で見つめるガイ。少しずつ少しずつ、ガイへと身体を寄せていくテンテン。

「……テンテン」

 少し掠れた低い声がテンテンを呼んだ。たったのそれだけで”嬉しい”と跳ね上がる心臓。

「っあ」

 そして次の瞬間、ガイの大きな掌がテンテンの肩に回された。いつもとは違う力強さで抱き寄せられるテンテンの身体。途端にガイの硬い胸板に包み込まれ、テンテンの心臓はさっきまでとは比べ物にならない程バクバクと高鳴っていた。

 テンテンの肩を抱くガイの腕に、さらに力が込められる。テンテンはそっと、静かにその視線をあげた。

 視線を上げた先で、ガイは静かに、涙を流していた。

「え」

「テンテン!! その熱い思い……いいぞ!! 目標に向かって走るその姿、青春だ!! 俺にできることならなんでもしてやろう!!」

 そう言ってテンテンを見つめるガイの瞳は、呆れる程に真っ直ぐなものだった。





 もう、ダメかも知れない。

 テンテンの心はもう既に折れかけていた。あれから一時間の間、テンテンは様々な罠を仕掛けてみた。最早意地になっていた部分もある。寄りかかるフリをしてガイの腕に身体を当ててみたり、短いスカートから素足を覗かせてみたり。そのどれもが一切の効果を発揮しなかった。

「よし、次はなんの教科にするんだ?」

 英語の勉強を終え、ガイはそう言ってテンテンを見やった。もはや罠を仕掛ける事に気力を使い果たしてしまったテンテンは、どこかグッタリとした表情で自身のカバンを漁る。もういっそ、早くリーとネジと合流をしたい。そんな気分だった。

 だがふと、カバンを漁るテンテンの手が止まった。

 手に触れた一冊の教科書を見て、テンテンの目の色が変わる。これがラストチャンス。最後の挑戦だ。唇を噛み締めその瞳に強い意思を宿したテンテンは、その教科書をガイの目の前に突きつけた。

「これの、勉強がいいです」

 差し出されたその教科書に、ガイの瞳はほんの一瞬、僅かに揺らいだ。

 それもそのはずだ。可愛い教え子兼恋人が、あろうことか”保健体育”の教科書を自身に突きつけているのだから。

「そ、れか……? どこかわからないところがあるのか?」

「はい、なので是非!!」

 そんなガイの一瞬の動揺を見逃さず、テンテンはずいっとガイに詰め寄るようにそう言った。ガイは訝しげに眉を寄せつつも「そうか……どこがわからないんだ?」と言って教科書を受け取った。





 そして30分後、テンテンはつい先刻とは全く真逆の表情でそこにいた。背中に感じるガイの体温、ぴったりと密着した身体。今テンテンは、ガイの胸に身体を預ける形で保健体育の勉強に勤しんでいる。

 わかりきっている事を何度も何度も質問し、挙げ句の果てには「漢字の書き方がわからないから」と理由をつけて、なんとかガイと身体を密着させる事に成功した。あとひと押しだ。いけ、頑張れ、テンテン! 心の中で自信を叱咤して、テンテンはおもむろにガイの胸板に後頭部を押し付けた。  ガイの表情を見ることができない事だけが唯一の不利点だった。

「……どうした、テンテン」

「先生と、こうしてると」

「ん?」

「すごく、落ち着きます。でも……」

  色気がないなんて絶対に言わせない。私は大人の女になるんだ。内なるテンテンがエールを送る。ガイにはバレないように小さく深呼吸をして、それから、テンテンは言った。

「もっと……先生に近づきたいな、なーんて……」

 ぽそりと呟くように、消え入りそうな声でそう言ったテンテン。ガイは、身じろぎ一つせずにその言葉を受け取った。流石に直接的すぎただろうか? 大人の女を通り越して、軽薄な女だと思われてしまっただろうか? 続く沈黙に、次第にテンテンの中に不安が募っていく。どうしよう。でも、本心である事に間違いはない。 「……俺は」

 ピンポーン。

 長く長く感じられた沈黙を切り裂いたのは、軽快なチャイム音だった。その音と同時に発されたガイの声は掻き消される。

「……リーとネジだな、開けてこよう」

 すっ、と。テンテンの背中を包んでいた温もりが離れて行く。思わず伸ばしてしまった手。だがそんなテンテンの手は、ガイの大きな掌に受け止められた。

「え」

 玄関へ向かったと思われたガイの身体は、テンテンの身体を真正面から包み込んでいた。突然の事に固まるテンテンの事など構いもせずに、ガイはテンテンの後頭部に手を回し、その顔を上へと向けさせる。

 少しだけカサついたガイの唇が、テンテンのそれと重なった。思わず息を止めるテンテン。だが次の瞬間、そんなテンテンの唇の間から差し込まれる太くて熱い舌。無遠慮にテンテンの口内を舐め回して、それからゆっくりと離れていく。

「さっきの言葉は、これ以上の事をする覚悟ができてからもう一度言ってくれ」

 そしてガイはそう言って、小さく笑いながらテンテンへと背を向けた。

 残されたテンテンは、言葉を失い顔を真っ赤に染め、ただただその場に立ち尽くしていた。





「あー!! ガイ先生、この間女の子に人気の紅茶の種類とお菓子の種類を聞いてきたのはテンテンに振る舞う為だったのですね!!」

「おいリー、それをここで言ってしまったら意味がないんじゃないか?」

「それにしても遅くなってしまってすみませんでした!! ネジが遠回りをして行こうと言うもので時間がかかってしまって!!」

「それは! 少しでも二人の時間を、と言う気遣いだと何度も説明しただろう!」





「お前たち……少し静かにしていてくれ……」





 ガイの部屋にてそんなやりとりが交わされたのは、その少し後のお話。